nakajiiiblog

ADHD当事者として、リアルな記事を書くことを目指してます。

初投稿でカミングアウトにチャレンジします。

0AB804F2-67B9-4EB5-9B17-DA8C0CE6DC8A


おはこんばんちわ,nakajiiiと書いてなかじーです。初めての投稿なのでグダグダになるかもしれませんが、どうか温かい目で見守って下さい。
またここはこうした方がいい、とか、こうゆうやり方もあるよと、このサイトを参考に勉強してみ!など、アドバイスありましたらぜひ、よろしくお願いいたします。
上手くまとめる事が苦手で、苦手なりに書いた長文ですが、暇つぶし程度に見て行って下さい。


まず自己紹介をさせてください。

私、nakajiiiは1983年5月23日生まれのふたご座A型。佐々木健介を目指して、挫折したカンニング竹山の37歳♂です。趣味は動画やアニメを見ること、カラオケ行くこと、iPhoneでゲームをすること(たまにツイキャスでゲーム配信してます)などです。
このブログでやりたい事は3つ

①このブログを発達障害のコミュニティにする
発達障害について社会に理解してほしい
③ブログを書き続けることで、自己分析をする


よく人に話したり書いたりしてると、だんだんまとまっていったりしますが、それをブログでしようと思います。

そんな私nakajiiiは現在、新たな現実と向き合わなければならない状況下に置かれてます。
実は去年の10月頃、発達障害の一つで、ADHD注意欠陥多動性障害と診断されました。診断されたときは、終わった・・・とか、この先どうしていいけば・・・みたいなのでは無く、あ!なるほどwと妙に納得した感じでした。

同じADHDの人で公表してる人だと、大手のツイキャス配信者のカマタクさん長嶋茂雄監督ウィルスミス黒柳徹子さかなクンジミー大西と大物ぞろい、けして珍しい障害ではありません。

他にもアスペルガー症候群の有名人で、イチロースティーブ・ジョブズスーザン・ボイル米津玄師栗原類

LD(学習障害)の人でスティーブン・スピルバーグ監督トム・クルーズミッツ・マングローブ
と凄い人だらけ


過去をよくよく振り返ると当てはまることが多かったのです。

4歳くらいの時母の話では、食器棚に置いてある食器を手あたり次第、玄関に投げつけたり(当然ほぼ粉々に)。
7歳の時は牛乳ラッパ飲みしながら自転車に乗ってたら、交通事故にあったり、交通事故以来勉強に追い付くことは、ありませんでした(泣)。

小学校5年6年の時は同じ担任だったのですが、2年間担任にいじめられてました。髪の毛むしられたり、給食与えてもらえなかったり、靴を脱いだと思ったらかかと側で顔面はじかれたり、私に監視役をつけたりと陰湿でした。

じっと座っていることが苦痛で授業の途中で何回もトイレに行ったり、小学校中学校の9年間の内7年分くらい遅刻していたり。

中学2年の時、両親が離婚、その頃は何もかもがおかしかった。
母も保険の営業をしながら車の免許を取り、そんな中何とか中学は卒業。母はスナックで働きだし、家に彼氏を連れてきては飲みつぶれ、だんだんと母の彼氏のDVが始まり、映画の中のような世界が現実に、今でも思うのは、その時の男が寝ている隙に包丁で刺殺さなくて、本当に良かった。


人と会話がかみ合わず、友達が一人もいなかったり

とにかく苦痛の日々でしかありませんでした。


中学卒業してからは・・・
16歳のころ夜遊びが過ぎて、しばらく帰らない時期がありました
しばらくぶりに帰ってみると、家の様子がおかしい・・・生活感がなさ過ぎて玄関のカギは閉まってるし、チャイムも鳴らないポストを見ると
17歳の頃から親元を離れ、寮付きの古紙中間処理業者で働きだすも、動きが遅い、のろま、鈍くさい、仕事できない奴、などなど散々、その当時も、1日働いて2500円とゆう日給、それでも5000円まで上がった時期もありましたが・・・

妹の友達で1歳年下の彼女もできて彼女の実家に居候、3か月ほどで妊娠発覚!!!ちなみにその時の家族構成は、私と彼女とお爺さんお婆さんといった4人構成、でそのころ日給5000円・・・あかんやろ!と思って、建築会社に転職するも3か月もたず解雇、また古紙中間処理業者に出戻り、しかし日給上がらずまた別の会社に転職、また解雇・・・この調子で20歳になるまでに20回以上転職を繰り返していました。

20歳を目前にしたある日、お金の事で話し合っていると、突然胃からの激痛と共に吐血、そのまま10日ほど入院、ストレス性胃炎でした
退院後はその家に戻る気にもなれず、親も頼れず、ホームレスになるしかありませんでした。
コンビニの裏から廃棄の弁当やパンを持ち逃げしては、廃墟で食べる日々、夏でしたが蚊も寄り付かないくらい体調を悪化させていました
再起不能となった状態で私は最低の選択をしてしまいます。「何か犯罪を犯せば生き延びれる」

そうです、生き延びるために何か犯罪を犯して捕まろうと考えたのでした。
その時は地獄か監獄の二択しかありませんでした。鍵を壊して盗んだ自転車で走っていると、中古車整備センターのような所に、鍵付きの販売用ではない車が停まっていました。おそらくスタッフが趣味でいじっていたのでしょう。バケットシートにスリックタイヤ、元々オートマのはずの平成元年式日産ローレルはマニュアルに、クラッチを踏むとガスの抜けるようなプシューって音が一升瓶くらいのマフラーからターボの音と共に火を噴きそうな勢いで聞こえてくる、そんな車でした。

走る事3時間・・・疲れたのでコンビニで立ち読みでも・・・と駐車すると、尾行していた車の持ち主の友人らしい人とパトカーからお巡りさん数人ぞろぞろと、コンビニの駐車場は騒然。
その時の気持ちは、やっと終わる、とゆう安心感の方が正直強かったです。それほど毎日が孤独で苦しくてどうしよもない日々だったのです。

半年後実刑1年2か月、執行猶予3年で拘置所を出て、保護施設のような所を紹介され、そこで仕事を探し、面接に必要な、履歴書、写真、交通費などをいただき面接へ。この時ほど人に感謝したことはありませんでした。

採用された会社は現場仕事、寮に入り、食事も3食付きなのですが、その会社の職長のその寮に住んでて、酒乱と言えるレベルで絡んでくる人でした、当時20歳の私には、ただただ怠いだけの存在で、仕事も月に7日間くらいしか与えてもらえず、給料はもらうどころかマイナスへたばこ代だけ何とか前借して、そのお金で新宿に飛びました。その時の会社は無断で辞めました。

歌舞伎町で成り上がってやる!と作業着を着た20歳の青年nakajiiiは新宿に降り立ったのですが、無人駅しか見たことないような田舎者の私が、歌舞伎町の場所も知らず、西口をウロウロ・・・たぶんヨドバシとかあって、明るく見えたんでしょうね(笑)

そんなこんなでホームレスがスラリとゴロゴロしてる地下道を歩いていると、朝日新聞を布団にゴロゴロしてるお爺さん、ASA求人欄をみて、これもらってもいいですか?と聞くと、ニコニコしながら、頑張れよ!って譲ってくれました。

時刻は深夜2時半くらい、端から順番に電話していき、一番最初に出た所に面接希望、電車代も無いことを伝えると、「電車代だすからとりあえず上野まで来て」とのことで、上野へ行き面接。宮崎か札幌行ってほしいんだけど、どっちがいい?と聞かれ、どちらでも忙しい方に行きます、と回答、その日はそのままその場所に泊めていただき、翌日札幌へ。

見知らぬ土地で新聞配達はなかなかのハードルの高さを改めて実感しながら、遅刻癖は続いており、2週間で解雇、2週間分の給料をもらって、新聞日広告にあった満喫が気になり、ススキノへ(笑)この時はススキノがどんな町か知りませんでした。

ススキノでグルメを満喫、怪しい看板が立ち並ぶ中満喫へ・・・行きつく前に楽しんで破産(笑)本当に学ばない男でした、途方にくれてフラフラ歩いていると、どちらお探しですか?と声が、振り向くと身なりのいいお兄さんがニコニコしてます、とっさに出てきた私の回答は、「仕事を探してます」

これがツボに入ったのか、元々ツボが浅いのかはさて置き、爆笑しながら、じゃぁ俺らと一緒にやるかっと誘われ、キャッチデビュー。
この時は他の選択肢はありませんでした。生きるための唯一の選択肢。

この頃が一番のバブル期でした、毎日2万3万と稼げて金銭感覚が狂っていきました。そもそも金銭感覚って概念もなかった頃ですが・・・

ある意味でここでADHDが本領を発揮していました、症状の一つ(多言)が武器になっていたのです。
通りすがりの通行人に手あたり次第話しかけ、所属してる店を紹介し、バックをもらう、ススキノで気持ちよくなれるお店は7割ほど行きました。

そんな天国のような悪行も続くはずもなく、1年半で風営法の改正から取り締まりが強化され、21歳の終わりに3回目の逮捕、起訴されて、執行猶予中の身に降りかかる現実は併合通知とゆう紙一枚で、実実刑4か月に執行猶予分の1年2か月が加算され、通算実刑1年6か月…私の22歳は丸々塀の中で過ごしていました。

当然の報いを受けて23歳の春に出所、このころ弁護士が実家の母と連絡を取ってくれてて、
実家に帰れないかの相談までしてくれたが叶わず、連絡先を知るのみであったが、そのおかげで今は普通に実家の母と連絡は取れてる。この時の弁護士じゃなかったら、たぶん今も音信不通だと思う。

出所後寄りのない私は函館の保護施設へ、半年間の間に自立するとゆうのがルールでした、日雇い労働や、引っ越しやの手伝いなどしながら職安へ通い、同じ施設にいた人に騙されて、武富士から30万借りさせられ、電話の名義も5台分作らされたが何とか、東京都八王子市の仕事を発見、型枠大工として働きだすも、やはり昼間の仕事は向いていないのか、北海道の寒さに体が慣れて、東京の夏に弱くなったのか、2か月で辞めました、がキツイとゆうより暑さが無理でした。

給料日に辞めた私はその足で立川へ、北口を歩いていると電話ボックスくらいの小さな案内所を発見!どちらをお探しですか?と声をかけられデジャブを感じながら、仕事を探してますと回答。この時の人もツボが浅かった(笑)
保健所も免許書も履歴書も職務経歴書も無いまま面接へ、ススキノでキャッチをしていた事を伝えると、即戦力として採用、広告代理店とゆう肩書の元、無料案内で新規立ち上げ組として、東京都府中、神奈川県の本厚木、横須賀、関内、群馬県太田市の店舗を軌道に乗せる。

東日本大震災の年2011年突然弟から、実家に帰ってきてと連絡が、どうも話を聞くと、弟が独立するのだが、(弟から見た)姉貴がうつ病で弟の独立後心配とのこと、仕事を辞めて実家に帰るも、前年度の収入が320万を超えているので、今まで受け取れていた手当てが受け取れなくなると、警備員の母と無職の私に言ってきた。実家に戻ってきていきなり月25万以上稼げるような就職口も、特別な資格もない私は、実家から半年としない内に出る事になった。
8年ぶりの帰省も過去の収入を理由に自治体によって引き裂かれたと言っても過言ではない

ちなみに実家にいる間に彼女が出来て、今年で8年目になる

その後は寮のある派遣会社に登録、工場で仕事するけど、流れ作業や団体行動、連携が苦手で、工場も量も転々としている中、妹の自殺・・・空虚感の中立ち直れず、仕事を辞めて、彼女のいる東京へ彼女の協力の元上京、ポスティングの仕事を始めるものの、時間内に配り切れない事を理由に解雇、保険も保証も何もない所だったから、失業保険も何もない、すぐに家賃払えなくなって、いつ追い出されるかビクビクしながらの就活、シーリング施工や重量鳶をどんなに頑張っても、続かない、仕事以前に人の名前を1回で覚えれない、だから分からない事も聞けない、ミスって何で聞かない?と聞かれても、名前覚えてなくて呼べないから聞けないとも言えない。

そんな中寮付きのポスティングの会社を見つけて、3年くらい働いた。一日平均3000円の収入で先の見えない中30代も半ばに入り結婚を考えると今のままではいいわけが無いと思い35歳の8月、東京チャレンジネットの支援を受けて、介護職員初任者研修を取得、11月から介護職を始めるも、名前を覚えられない、仕事が遅い、注意力散漫など色々な理由により、一部の職員からパワハラを受ける。
10月ADHDの診断を受け、ほかにも適応障害不眠症を併発
2019年12月31日で自主退社、現在生活保護で生計を立てています。

ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございます。
簡単にまとめるのが苦手で非常にダラダラと長文になってしまいました。

ここまで書き出して、浮かび上がった問題点を次の記事で書きたいと思います。